これから、本格的に走り方やトレーニングの仕方を本から学ぶ前に最近2年間の六甲山でのトレーニングで考えたこと、感じたことを一旦、整理しておくことにしよう。
毎週末、新神戸駅から摩耶山を経由してガーデンテラスをひたすら走り続けてきたが(もちろん体調や怪我のため途中でやめたりしている日もある。)、さすがに2年も同じ道を走り続けているとあるとき、ふっと走ることがわかる瞬間に出会う。
100kの大会やトレランの大会後は飛躍的に走力が上がるというより、心理面での変化(大会ではトレーニングで走る距離より長く、時間も長く走るため以前より楽に感じて登れたりする。)が大きいが、走ることがわかる瞬間は、何気なく週末に走っている六甲山でのことが多い。
どうわかるのかを言葉で説明するのは難しいのだが、それ以降は自分の能力がその日以下になることがないぐらいレベルがひとつ上がる。今、気づいてる限りでまとめてみる。
山登りの走り方について
体重を山の斜面に向かってのせていき、つま先で着地して片方の足が着地した瞬間に次の足に体重を移して一定のリズムで淡々と上る。歩くとリズムが狂うので歩かない。のぼりなので息が上がるが、なぜか分からないが、あるときから心拍数があがらないように上ることができるようになる。足運びのリズムと呼吸するリズムが重なって、思考もなくなってリズムに身をおく感じで走っているときが一番疲れずに走れる。逆にいろんなことを考えながら走っていると頭が重くて走るのがしんどくなってくる。これは肉体的な疲れではないしんどさである。一番最悪なのは時間を決めてタイムトライアルしているときが自分にとっては負荷が大きい。
山の下り方について
一番重要なのは重心の位置である。下り斜面に対して重心が上下にゆれるほど足に負荷がかかる。そのためやや中腰でできるだけすり足で走り、一歩の歩幅を小さくして位置エネルギーができるだけ小さくなるように走る。階段を下りるときは特に重要でスキーのパラレルターンをするつもりで体重移動して両足をそろえるようにして着地のタイミングを少しだけずらして片足にかかる負荷をもう片方の足で吸収するように時間差でそろえて着地すると負荷が最小になる。そのとき中腰で重心をできるだけ低くすることは忘れない。これを高速で行うことでくだりを一気にかけおりることができて、なおかつ負荷はほとんどなく走ることができる。
この理論が正しいかどうかは科学的な裏づけは何もないが、感覚的には正しいのではないのかと思う。どうやったら楽に山をのぼれるのか、足に負荷をかけずに下れるのか考え続けて体が出した答えだからだ。
今後、いろんな科学的なアプローチで走り方について固めていくとまた違ってくるかもしれないが、自己流で見つけた走り方としてここに記録しておく。
続いて、目の付け方、どこを見て走るのかについて
どこを見ながら走るかで走りそのものに変化があることに気づいた。これは、現在も継続中でもっとうまく見ることができれば、楽に走れるかもしれない。
もともと宮本武蔵の「五輪書」(一説には弟子がまとめたものとも言われている)を読んでいてこれを走りに生かせないかと考えたのが始まりだ。
「五輪書」の中で剣術の目の付け様について書かれたところでこう書いてあった。
目を細めてぼんやりと全体を眺めるようにし、剣先を見ないで全体をみる。
みえないものをみようとしてみえるものをみないようにするとのこと。
これを山を走るときに使うとこうなる。
普通、山をのぼるときに岩がたくさんあるので足元を凝視することが多くなる。
それをしないで、目は前を見てぼうっとして、すると岩でつまづきそうになる。
大事なのはこの部分で視界から岩が消える地点があって実際にその岩を飛び越えるには前を向いていたのではその岩を見ることができない。そのときにはじめて気づいた。見えないから岩があると思って飛び越えるのだと。つまり、岩をイメージすること想像することで見えないものを見ようとしろということを宮本武蔵は言っているのだと解釈した。
これによって景色が一変した。自分は前を見てはしっている。視界から景色が消えた後も景色をイメージし続けると自分の視野がイメージしている分だけ広がった。見えていないところまで見えるようになった。
これによって今まで常に目の前の岩を見ていたのが、前を見て全体をみるようになったので、足をすべらせても安定感が全然違う。人間は目の前のものを凝視してしまうとほかのものに対しての意識がうすくなるのかと気がついた。つまり不意の変化に対応できなくなってしまうということだ。
ただこれは、実践がとても難しい。現在も継続中だが、下りで前を見て走るとめちゃくちゃ怖い。想像してもらえればわかると思いますが、足元を見ていないとしょっちゅうつまずきます。
以上、今のところまとめておきます。
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